石川滋賀県人会
甲賀「忍者」の虚像・実像 望月 隆
―石川滋賀県人会の講演を終えてー
はじめに
一般の方にとって、あるいは滋賀県人の方も、甲賀と聞けばまず「忍者」が頭に浮かぶのではないでしょうか。伊賀忍者と並び称される「忍者」たちが跋扈した恐ろしげな山里との印象があるかもしれません。ではその「忍者」とは実際はどのような存在だったでしょうか。「超人的な忍法を駆使し、時代を駆け抜け、今なお潜伏する」のでしょうか。2026年の総会の際にはこのテーマでお話する機会をいただきましたが、本稿ではその時に触れられなかったことも含め、私の考えを記してみます。
甲賀の里、そして甲賀武士の概要
甲賀「忍者」の実像を考えるにあたり、まず甲賀の地理と歴史、そして甲賀武士の概要を示しておきます。
鎌倉末期から甲賀郡では荘園の管理のため地侍が勃興し、やがて小領主として集落、村を管理するようになりました。これは荘園の発達した他の地域でも見られたものです。南北朝―室町時代になると甲賀の地侍は、都に近い利点、多くの天台宗寺院や山岳信仰の拠点の存在に裏付けされた教養や信仰心をもとに、近江の守護佐々木六角氏や室町幕府への仕官に成功し、また軍功を上げることで存在を高めていきます。その結果、各村の地頭として名前が残るようになりました。これら地侍(甲賀武士)は主に血縁関係で結ばれた同名中惣(どうみょうちゅうそう)を組織し、その単位で集落や村を管理していました。同名中惣は合議制で運営され、隣接する同名中惣とは武力的な緊張があっても大きな争いは回避しながら連立していました。中立的な同名中惣が調停に入ることもあり、これが戦国時代後期には甲賀郡全体の自治組織である甲賀郡中惣につながっていきます。甲賀地方は古琵琶湖層の粘土質の土壌が侵食されてできた低い丘と稲作に適した粘土に覆われる谷が延々と続く独特の地形を示しています。現在でも曲がり角を間違えてもしばらくは同じような風景が続き、カーナビがなければ狐狸に迷わされたかと慌てることもしばしばです。室町時代以降、甲賀武士たちは集落の背後や谷の出入り口を見通せる丘に城館を造営し、侵入者に備えたと考えられます(図1)。甲賀郡には300を超える多くの中世城館が造営され、現在も多くの城館跡の土塁が残されています。守護の六角氏はこのような甲賀を、同名中惣の独立を認めつつ利用する管理法を取っていました。更に六角氏は甲賀を通じて隣国伊賀にも支援者の連携を広げていました。この甲賀と伊賀の連携は六角氏が近江で衰退した1570年代まで続くことになります。
図1 甲賀市甲南町-甲賀町 赤丸の中世城館跡は谷の入り口に分布する
甲賀武士の盛衰
甲賀武士の対外的な動きでは1487年の鈎(まがり)の陣での活躍がもっとも有名です。将軍の足利義尚が、応仁の乱の後始末として六角高頼を成敗しようと自ら出陣し、栗太郡(栗東市)鈎に布陣しました。そこへ、のちに甲賀五十三家と称される甲賀武士たちが夜襲、奇襲を仕掛け、将軍側を大いに苦しめました。1年半の戦いののち、将軍義尚は陣中に没することになり、これにより甲賀武士の恐ろしさが広く喧伝されることになります。後年この年を「忍者」発祥の年とする研究もあります。 時代が下り1560年には桶狭間の戦いの後、徳川家康が戦国武将としての地位を確立することになった蒲郡の鵜殿氏との戦いに甲賀武士二百人が参戦し、敵将の息子たちを生け取りにするなどの戦功をあげたことが知られています。この戦いはNHKの大河ドラマ「どうする家康」(2023年)ではなぜか服部半蔵が率いる忍者団の活躍として描かれていました。なおこの頃に伊賀惣国一揆と連携する形で甲賀郡中惣が成立し、甲賀郡は甲賀武士たちにより自治的に運営されることになりました。甲賀武士が最も輝いていた時代と言えます。 1560年代以降は、覇権をめざす織田信長と、それに対抗する六角氏の争いが繰り広げられ、甲賀武士にとっては苦しい時代に入っていきます。特に1570年の野洲河原の戦い(落窪の合戦)では、甲賀武士は六角氏について信長麾下の柴田勝家と戦い、大敗北を喫することになります。信長側の記録である「信長公記」には「伊賀・甲賀の屈強な地侍七百八十人を討ち取った これで近江の半ば以上が平定された」と記されています。これを機に甲賀武士は弱体化し、1581年の第二次天正伊賀の乱(伊賀惣国一揆vs織田軍)では信長側につくしか選択の余地はなかったようです。そして長く連携していた伊賀衆を裏切る形で伊賀へ攻め込むことになります。のちの大衆文芸などに見られる甲賀忍者vs伊賀忍者の争いはこれをヒントにしたのかもしれません。 その後、天下人になった豊臣秀吉は甲賀武士の存在をうとましく感じたようで、1585年には甲賀地方を管理するために水口岡山城を築城、紀伊雑賀攻めの際の工事の不手際を口実に多くの甲賀武士を処分、放逐し、その結果甲賀郡中惣は解体されてしまいます(甲賀揺れ)。こうして戦国時代の混乱の中で甲賀武士の衰退が加速していきます。この時代まで甲賀武士は丘陵を利用したゲリラ戦や、堀や塀を越え、陣中に火をかけて城を攻めるなど、外からは忍者の仕業にしか見えない戦法を駆使し、また同名中惣の中では火器の取り扱いなどが伝承されていました。しかし、甲賀武士が自らを忍者あるいは忍者使いと認識していたかは明らかではありません。 関ヶ原の合戦(1600年)では、心情的に、あるいは調略を受けて家康側にあった甲賀武士ですが、西軍の水口岡山城主長束正家によって甲賀に足止めされ、東軍につくことができませんでした。このため、家康が徳川幕府を打ち立てた際、神君甲賀伊賀越え(1582年)や伏見城の戦い(1600年)において家康側で功のあった甲賀武士の一部は旗本をはじめ武士として取り立てられますが、多くの甲賀武士は仕官できず、帰農することになります。ただし、甲賀郡の大部分が戦国時代に戦火に晒されずにすみ、郷土が維持されたのは甲賀武士たちの賢明な判断があってのものでしょう。彼らはその後も甲賀古士として武士の矜持を保ち、また伝家の忍術を継承しますが、江戸時代が安定するにつれ甲賀武士の戦術が必要とされることはなくなっていきました。
甲賀「忍者」の活動
江戸幕府に取り立てられ、江戸に移った甲賀武士は与力、同心、あるいは鉄砲隊として組織されます(甲賀百人組 1632年)。また島原の乱(1638年)では甲賀武(古)士10人が幕府側として参戦、忍びとして活動した記録が残されています。ただし、甲賀に残された甲賀古士は百姓に勤しむものの、生活は決して楽ではなく、忍術で培った薬の知識を活かして薬業や医業、修験者の経験を活かして加持・祈祷を生業にする者もありました。その中で特筆すべきことがらでは甲賀、伊賀両国の諸家に伝わっていた忍術が「万川集海」として集大成され、体系化されたことが挙げられます(伊賀の上忍、藤林保武著1676年)。その初めの部分では「そもそも忍びの根本は正心である 正心とは、仁義忠信を守ることにある」と忍びの倫理が強調され、武家社会の倫理観に適した内容になっています(図2)。
図2 「万川集海」巻頭部分 左頁最後の部分に「正心ヲ第一トスル」とある
さいごに
今回は甲賀「忍者」の華々しい活躍を紹介することはできませんでした。もっとも忍者の活動自体は記録に残りにくく、また江戸時代には幕府のより中枢に伊賀衆がいたことから、甲賀「忍者」の活動があったとしても実態の把握は今や困難かもしれません。一方で室町時代から戦国時代にかけ、甲賀武士たちが自律的に連携し、下剋上の闘争や戦国大名たちの覇権争いを回避しつつ郷土を守ろうとした苦労が印象に残りました。この苦労の中で甲賀の風土に根差した戦略や知恵が、外からは忍術や忍者の仕業に見えた、というのが実態のように思います。このような「忍者の住む」甲賀は、他国からはとても攻めにくそうな地域ではなかったでしょうか。伊賀市・甲賀市が共同で日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀ーリアル忍者を求めてー」を申請(2017年認定 文化庁)したのも、近年の娯楽化され、商業化された「忍者」の虚像でなく、史実に基づいた「忍者」の実像に迫り、ひいては中世以来この地を守ってくれた人たちへの敬意を示す取り組みに他ならないと考えています。
参考文献
渡辺俊経:甲賀忍者の真実 末裔が明かすその姿とは サンライズ出版 彦根 2020.
藤林保武:万川集海 https://www.iganinja.jp/old/japanese/menu.html.
甲賀市教育委員会:甲賀市文化財調査報告書 第11集 中世城館遺跡 甲南地域調査報告書(2) 2008.
太田牛一:現代語訳 信長公記(中川太古訳) 新人物文庫 KADOKAWA 2013.
磯田道史:尾張藩の甲賀忍役人の成立と展開 新出史料「杣中木村本家文書」から 忍者研究 6:1-16.2023
藤田達生:伊賀者・甲賀者考 忍者研究 1:16-27, 2018.
(2026年3月)
