迷宮から復活へのトポス                   吉岡 礼子

 寒いけど好きな季節である。

 犀川が海に注ぎ込むあたり、野鳥の森近くに住んでいた頃にはこの季節、まるで火事にでも遭った様に黒々と裸木が濡れそぼっているのを見るのであったが、枝々には既にかっちりと無数の芽が天を向いて抱かれているのであった。お天気の日には、枯れ芝の上に光が色を帯びて編み物の様に交差して落ちているのだった。春の来る喜びを教えてくれていた。

 それより以前、1976年に夫の転勤で初めてこの地に着いた頃、春まだ浅き休日にお弁当を持って内灘から北上のドライブをした。車中私は考えていた、あのゴツゴツと握りこぶしの節を持つ灌木の群れは何だ、と。後にそれは、夥しいニセアカシアの群生であることを知った。

 引越しの前年に生まれたツインズの男児も、洟を垂らしながら海苔巻の海苔をしゃぶっていた。

 同じように窓外の風景を見る様に、うっそうとした藪の奥の流れに目を凝らしながら東京郊外、玉川上水を歩いたことがある。三鷹から井の頭公園まで、或る年の夏だった。

 公園に近づいたころ、私は自分の足がたどった或る三角形に思いをはせていた。太宰治が晩年(とはいってもようやく三十代後半)の仕事部屋にしていた一点と、三鷹下連雀の作家の自宅と、享年23歳の元美容師山崎富栄さんと滑り落ちたとみられる入水場所、の三点のなすトライアングルについてであった。

 此の三角形については、いかなる太宰評論に於いても記された事は無いので私はちょっと自信を持って我が推理を述べてみたくなった。

 太宰さんは、あの夜自宅に帰ろうとしていた。それが私の感情と貧しい思惟から来る結論であった。

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 作家太宰治(1909〜1948)は、1939年に師と仰ぐ井伏鱒二の媒酌に依って、甲府の石原美知子嬢と結婚。
 結婚後生家のある青森金木での疎開生活もあったが、三鷹の陽当たりの良いつましい借家に落ち着いてから
 の創作活動には目覚ましいものがあった。
   https://dazai.or.jp/modules/know/know_annals.html

 冨嶽百景 女生徒 葉桜と魔笛 皮膚と心 きりぎりす 恥 待つ おさん 十二月八日 饗応夫人 東京八景 思
 い出 駆け込み訴え 津軽 御伽草子 もうもう文章を覚えるほど読んだ作品が生き生きと浮かんでくる。


 1994年のいま私は、三鷹駅前から路地に入った或る葬儀屋さんのニ階をみせてもらってきたのだ。『津島さん(太宰さんの次女の作家の津島佑子氏)等にも・・お断りしてるんですよ』最初葬儀屋の奥さんはそう言った。『ああ、それじゃこれをどこかに手向けてもらえないでしょうか?』私は向日葵のブーケに青い花を挿して手渡した。素直に引き下がったからか奥さんはにっこりした。それから市役所に行ってもう一度その路地を通りかかると、『よかった、もう一度いらしてくださって!娘が是非見てもらってほしいと言いまして』娘さんは私の出た学校の後輩らしかった。

 其処は、太宰さんと山崎富栄さんが心中する一年前に出会って以来共に過ごした六畳程の部屋だった。路地をはさんでその時はもう無かったが、もう一つの仕事部屋「千草」のニ階が目の前にあって、太宰は両方を仕事部屋にしていた。先程も述べたように、太宰は弁当を持って規則正しく仕事部屋に通う程、旺盛に執筆をしていた。

 1948年6月13日夜半、朝日連載の「グッド・バイ」三回分(通算十三回了十八回の予定と吉岡は記憶)をきちんと揃えて置かれて有った。前の月には身体的には元気に脱稿したとされる『人間失格』連載が「展望」に始まってもいた。

 私はこう思ったのだ。仕事場A地点から入水場所C地点迄よりも、C地点から自宅B地点の方が、近いではないか、と。あの夜、喀血の後かも知れぬ二人よろめきながら上水沿いを歩き、決行された。が、土手には男の下駄の激しく抵抗した跡があったといい、又男は殆ど水を飲んでいないことから既に仮死状態で有った可能性も指摘。

 自宅には、可愛がった三児が居て、長男正樹さんには障害が有ってその後15歳で早世されている。

 私は山崎さんの遺書(遺書を含むノート)を読んだ時、震えの来る心地がした。正妻に詫び、その子供たちに詫び、同じ愛人である太田さんに充分にしてあげてほしい旨も。父母兄に宛て御迷惑をおかけします。亡骸は(自分一人を)静かに小さく処してほしい旨記されていた。これは全くの偶然なのだが、その前年暮れに太宰さんの子を産んだ斜陽の人、太田さんと同じく、山崎さんも湖国に縁のある女性なのだ。母君の実家が八日市で、東京を焼け出されて八日市本町の薬局の裏へ両親と一緒に疎開している。遺書には、死亡を伝えるウナ電の宛先に、父 滋賀県神崎郡八日市町二四四 山崎晴弘 と富栄さん自らが記している。 

 1948年6月14日午前、周囲がおかしいと気付き、しかし折しも降り続く雨と増水で捜索は難儀したらしい。伊馬春部他沢山の追悼文もある。私は、近江八幡の長姉の娘が十年ほど帝劇の「レ・ミゼラブル」に出ていたことから、ユーゴーの詩篇しか知らなかったのが昨年一年かかってレミゼを読み通した。モリエールが出てくればそれを読み・・途中微熱が7週間続いて休みもあったので丸一年かかったが、有り難かったのは翻訳の素晴らしさ、豊島与志雄の労作に一重に頼る読書だった。その豊島与志雄が、太宰治の葬儀委員長であった。

 此処までほぼ記憶だけを頼りに書いてきて、私は突っ伏した。三鷹の地図を観たのだ。全くの誤謬、CからBが近い等と言うことはなかった。三鷹市役所にも電話して確認。私が歩いた当時は入水場所を示すモニュメントも無かった。私は遺体の上がった場所まで行ったり色んなことを思いながら行きつ戻りつしたのだ。途中水質検査をしている水道局員にもどのあたり?と訊いたのだが。とんでもなく独断的なトポロジーだった。が、怪我の功名か、トライアングルが決して閉じられた三角形ではない様に、何故?という迷宮が、むしろ死を超えた強さを啓示しているように思われた。

 若い日の桜桃忌の思い出、同じ卓におられた檀一雄氏はその頃(1960年代半ば)太田母子のあまりの苦境に、『斜陽』の印税の一部を何とか・・と美知子夫人に直談判された様だが、答えはNO.

 紙幅もないが、太田静子さんについて記して拙い筆を置こう。

 『太田家は、十数代医師を業として、大分中津藩の御典医も務めていた。それが、母の祖父の文督の代になって、本家の医者、謙吾一家と共に、縁もゆかりもない近江に引っ越してきたのである。文督は、長崎の医学校で勉強したが、おしゃれが好きな怠け者だったらしい。

 しかしその息子の守、つまり母の父は、いたって真面目、そのために本家の、父のイトコに当たる謙吾からも可愛がられていた。

 大分中学から大阪府立高等医学校(後の阪大医学部)を卒業した守は、同じ村の庄屋の生まれのキサとの間に、長女芳子をもうけた。ほどなく、日露戦争に軍医として応召、除隊後、すでに謙吾が開業していた滋賀県愛知郡愛知川町からほど近い、東押立村大字僧坊というところに開業した。そして謙吾一家が長浜に移ると、そのまま愛知川の医院を引き継いだ。

 大正二年生まれの母は、その愛知川の家で生まれた最初の子だった。』

           太田治子著『母の万年筆』より

 

 こうして、『斜陽』の原案者太田静子さんは1913年(大正2)に愛知川に誕生した。父守氏は1938年(昭和13)に病没、静子の長兄が後を継ぐものの、その後上京し太田医院は消滅した。その跡に建ったのが成宮産婦人科で、私は長男を1973年に其処で出産した。私の母が通ったと同じ愛知川高女の少し御姉さんであった太田静子さん、その弟通さんを母はよく近江鉄道で見かけたと。『斜陽』では直治として登場。如何にも文学青年と言う感じやった、と母。

 

 『斜陽』の中に出てくる和田の叔父様〜とは実在の静子の叔父(母きさの弟)で大和田悌二氏を指す。大和田悌二◇官僚で日本曹達3代6代社長、1939年に通った電力国家管理法成立の中心人物。詳しくはwiki等で。敗戦後すぐGHQから財閥解体に指定され、自身も巣鴨に引っぱられた事もあるという。先に述べたように大分の出で京大時代に姉である愛知川の太田夫妻には親身になってもらい、大変人間的つながりを大切にする方であったのだが、静子が太宰との子、治子を産んでからは姪に絶縁を宣告。しかし斜陽のかず子に言わせた言葉〜古い道徳からの脱皮、戦闘開始、恋と革命の為に生れてきた、等は女たちだけの問題だったろうか。

 左翼運動の名残か、或いはイエスが平安ではなく剣を投げにやってきたと言うように炉辺の幸福を否定しなければならかった人であるからこそ、自らはそこから去って身を賭してこその成就の様に、太宰の亡骸の顔は穏やかであったと記されている。太宰と聖書、富栄と聖句など勉強したいことが胸にのぼってくるのだが、あくまで残した作品を愛する立場から、最後に短編『トカトントン』を添付させて頂きたく。有難うございました。      https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2285_15077.html諸兄姉が何かお書きくださることがあれば、とても嬉しく存じます。

 

                                          二月二十二日

                                            吉岡礼子