石川滋賀県人会
加賀の海軍と琵琶湖基線の夢を実現させた大聖寺藩の蘭学者 竹田 亮祐
琵琶湖では現在、竹生島ほか3、4の観光スポットを結ぶいろいろのクルーズが運行され、大津港から出港する外輪船ミシガンが特別企画を凝らし就航している。また県は、船内教育目的の学習船として「うみのこ」、あるいは「みずすまし」などを保有し多様な目的に利用している。私は、幼少の頃、結婚して間もない夏に竹生島を訪れたことがある。懐かしく想うのは中学三学年か四学年寺に、教練のカリキュラムとして西江州の陸軍饗庭野演習場での兵舎生活の実地体験を受けたおぼろげな風景である。各自、三八式歩兵銃(模偽銃)を持たされ、長浜から小さな汽船で湖を横断し、饗庭野兵舎で兵士達と行動をともにした。軍隊という所の不条理を知ったのはこの頃である。級友の中にたわいもないミスで、兵にスリッパで頬をぶたれた者がいた。一兵卒にしてみれば「軍隊の厳しさ」を知らしめたかったのであろうが。
外輪船ミシガンは、大津がミシガン州と姉妹提携を結んでいるため種々の交歓事業がなされているらしく、船内にはミシガンから派遣された実習生が接客にあたっている。
ここで本題に入り琵琶湖汽船の発端をふり返ってみよう。
1853年、ペリー提督の軍艦二隻が浦賀沖にあらわれ、砲艦外交によって開港を迫り時局は風雲急を告げようとしていた。19世紀半ば幕府は、友好国オランダに頼っていよいよ海防に備えて海軍力の増強に動き出した。加賀、佐賀、薩摩の諸藩は競って軍艦の購入を謀り、長崎ではオランダ海軍士官による蒸気機関学の講義、海軍伝習を開始し(1855〜58長崎海軍伝習)、蘭医学者を動員して海外における海軍、砲術に関する情報を集めていた。
加賀藩では学問所、明倫館があったが、1854年、荘猶館が創立されると蘭医学者を起用し兵学の近代化、砲術学の翻訳にあたらせた。
鹿田文平は、前田半足軽の小頭に生まれ、俊才の誉れ高く、京都の小石元瑞、大阪の緒方洪庵塾、次いで江戸の坪井道に学んだ蘭学者に成長した。オランダ語を読むに便利な[オランダ語の辞典]を編纂し、また[海軍要略]や[西洋兵書]を翻訳したのみならず、軍艦の器械調理方として加賀藩の発機丸を函館まで航海させた有能な侍であった。
一方、大聖寺の石川嶂は、1868年、戊辰戦争に際し(*)、京都御所警備の兵員を輸送するため藩に近江梅津−大津間に汽船就航の案を建議するよう申し出たが容れられなかった。そこで石川は脱藩して地元の大津百艘船を取り仕切っている一庭太郎兵およびその弟啓二の助力を得て造船の夢を実現しようとした。嶂と啓二は長崎に赴き、啓二はかって幕府の製鉄所で海軍伝習の教育を受けた杉山徳三郎から造船と機関学を、オランダ人から航海術を学んだ。また、嶂の方は、長崎の加賀藩海軍奉行・稲場助五郎から一万二千五百両の大金を借り、イギリス人からエンジン二基を購入、技術者数名をつれて川崎と大津に造船工場を建設し、琵琶湖の蒸気船”一番丸”(5トン)を作り上げたのである。
大聖寺藩は大津汽船局を設立し1969年3月3日、”一番丸”の推進式が行われた。初代船長はかっての大津百艘船の一庭啓二であった。その後の琵琶湖の太湖汽船の幕開けである。
この日の推進式には、石川の師:東方真平、鹿田文平がそれぞれ七言絶句を作り、彼らの船出を祝っている。あたかも金沢医学館が準備されつつあった時代である。
東方 真平
比良影落水依依 比良の影落ち 水依依たり
忽見蒸烟起筆微 忽ち見る蒸烟 起筆微かなるを
芙是菅公祠畔種 芙は是 菅公の祠畔に種ゆ
梅花一点飛逆風 梅花一点 逆風に飛ぶ
大 意
比良の山影は落ちて 琵琶湖の湖水は ゆらゆらと波打っている
忽ち蒸気のくむりが どこからか微かに見える
蓮は是 菅公(菅原道真)を祀る社(天満宮)の畔に植えられているが
梅の一片が 向かい風に逆らい飛んでくる
卯辰山の道真を祀る天満宮そばの蓮池を、太宰府に流された道真を慕い、京都で長年馴れ愛でた梅の花が太宰
府に飛来したという、飛梅伝説にかけ連想したと思われる。
鹿田 文平
噴烟旋転溯列風 噴烟旋転して 列風に溯い
洪濤萬里瞬間通 洪濤萬里して 瞬間に通じる
奇機所出知如処 奇機出ずる所 何処か知らん
芝谷街頭仙屈中 芝谷街頭 仙屈の中
大 意
吐き出される蒸気のくむりが円を描いて 激しい風に逆らい
大波のはるか遠くまで瞬時に通ってしまう
不思議な蒸気船がどこに向かって出港するのであろうか
美しい谷か街の中か はたまた俗世間を離れた清いところなのか
*
戊辰戦争の際、加賀藩主・前田慶寧のとった対応は見当外れであった。戦端の報を受け戦況を知らないまま徳川方に味方して出兵させたものの越前で徳川方敗走、徳川方朝敵の勅を知り、急遽朝廷方に尽くすことを表明した。四月には長岡、新潟、山形県方面への出兵のため、七尾軍艦所の「梅鉢加賀」が活躍した。