金沢城の石垣                        杉本 寛

一昨年(平成16年)3月の「我が故郷シリーズ」で畑中純子さん(石川滋賀県人会理事)が「穴太衆積みの街坂本〜滋賀院門跡」について述べておられます。金沢城や彦根城をはじめ多くのお城の石垣を造ったという穴太衆(あのうしゅう)のことについて、坂本の「滋賀院の石垣」は最も美しいと紹介がありました。

当時、私は穴太衆についての知識は皆無でしたが、昨年11月に金沢城周辺を散策した時、加賀藩の穴太「石垣普請職」後藤権兵衛によって改修された「薪の丸東側の石垣」についての案内板を見ました。その後、図書館資料および金沢城ガイドマップを読みましたので、金沢城の石垣と穴太役について説明します。

穴太とは畑中さんも書かれていますように、坂本近くの小部落出身者で城普請に従事した石工で有名でした。延暦寺、円城寺などの寺が近くにあって古くから五輪塔などの製作に巧みな石工が多くいて石塔師と呼ばれていたそうです。

織田信長が天正4年(1576)に安土城を築く時招かれ、以降石垣師に転業することになり各地の城郭築造に従事しました。これにより穴太の築方は次第に天下に名高くなり、穴太といえば石垣築の別名となり穴太役(穴太方)という職名までできました。

加賀藩では前田利家が越前府中(現在の越前市武生地区)在の時、穴太出身の穴太源助、小川長右衛門が召し抱えられました。また、慶長10年(1605)利長が高岡城築城のため穴太又助を連れていったとの記載があります。寛永4年(1627)の侍帳に穴太出身者として300石の戸波清兵衛、100石の杉野久左衛、他50石、40石クラスの石工技術者が記載されています。

一方穴太出身者でない穴太方では後藤家の面々が有力です。初代後藤杢兵衛基和は講談でお馴染みの大坂夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次の異母弟です。彼は寛永4年(1627)の侍帳に70石として記載されています。後藤家は穴太出身者の後塵を拝していたそうです。6代目後藤彦三郎は穴太にして穴太にあらずとする意識から穴太ではなく穴太を使用したのではないかと想像されます。穴太氏は一時期在る御殿の石の橋に穴太の名を入れたことが殿様にわかり、ひどく叱責をうけ、禄を召し上げられ浪人をしたが後に許されて復活したことがあったようです。

それに対して後藤家では由緒5点をはじめ役儀、相続、俸禄、縁組、法事など後藤家自身に関するものや、秘伝書17点、石垣積様秘伝絵図41点、金沢城絵図4点等々「後藤家文庫」として200点余り残しました。従いまして穴太家より後藤家の方が著名になったようです。

金沢城の石垣には穴太氏、後藤氏を中心とした業績について年代を追ってみることができます。主要な石積みの技法として以下に列記します。

@野面積み(のづらつみ)

ほとんど加工のない自然石を積み上げる技法で古い時代の石垣に見られます。初期穴太衆積みの石垣と思われます。「東の丸北面石垣」は金沢城の初期の姿を伝える数少ないもので、自然石や荒削りしただけの石を緩い勾配で積み上げています。












A打ち込みハギ積み

形や大きさを揃えた割石を用いて積み上げる技法です。「二の丸北面石垣」は形や大きさを揃えた割石が積まれています。「打ち込みハギ」の中でも最も完成されたものといわれています。













B切り込みハギ積み

石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる技法です。最も完成された技法で金沢城の重要なところで多く見られます。重要文化財に指定されている石川門の石垣は、向かって右と左で積み方が違います。左側は「打ち込みハギ」の技法で同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、昭和2年(1765)の改修時のものといわれています。










以上の基礎知識をベースに、金沢城内の石垣巡りを石川門からスタートして旧石川県庁舎側のいもり坂口までの14カ所と、いもり堀園地内の石積み模型・発掘石の展示・明治の石垣・本丸南面の高台石垣・鯉喉櫓台石垣をじっくり見学するのも一興かと思います。

資料・文献

@金沢城・兼六園ガイドマップ

A金沢城郭資料  石川県立図書館内石川県図書館協会発行 昭和51年11月