北前船と近江商人                      杉本 寛

15世紀の中頃から約100年間にわたるアイヌと和人の争いは、北海道西南部の日本人占拠を確定し松前氏による封建支配が確立しました。

この頃、行商人を起源とする近江商人の活動がこの地にも波及してきました。松前藩士が俸禄として得ていたアイヌの海産物の交易権の行使を、主に近江商人が請け負い交易という形に発展させました。主な近江商人として建部七郎右衛門、岡田弥三右衛門、田附新助、藤野四郎兵衛等の名前が見られます。

近江は海に面しない国ですから利用港として隣国の若狭の小浜、あるいは越前の敦賀が用いられました。またこの船の船乗りには越前や若狭・加賀・能登など北陸の船乗りが用いられました。

このような経緯から北海道と北陸地方を結ぶ海路(日本海航路)が江戸時代初期から盛んとなりました。その民間における功労者は近江商人であり、更に海上に現場で船を操り、生命に危険を曝されながら荷所荷(内地に送る荷物)を運送したのは北陸の船乗りでした。そして敦賀や小浜から琵琶湖大津経由で京阪に搬送されていたのが、経済上の必要から日本海を南下し、下関から瀬戸内海を経て大阪に入る海路が開発されました。いわゆる西回り航路といわれています。

              瀬越白山神社                       船絵馬の一例(北前の里資料館蔵)














このように北陸と大阪、北海道と北陸を結ぶ両海路の結合、すなわち北前航路が完成し、北前船が出現するのはおそくとも18世紀初頭と考えられています。この中で近江商人と加賀の船頭衆の関わりが現在の加賀市大聖寺瀬越町橋立町に残されています。

日本海航路に西川氏、岡田氏は6〜7隻の千石船を持ち、その回漕を北陸地区の船頭に一任されており、子々孫々に継承されていました。加賀市内には船の安全を祈願して数多くの船絵馬が残されていますが、その中に「江州岡田手船」とあるのは、岡田家に雇われた瀬越地区の西山喜三郎の奉納でした。(瀬越白山神社蔵)

また橋立町には、江州愛知郡の豪商藤野四郎兵衛を「御本家」と称している船頭または船主家が6戸も存していたそうです。こうした関係は長く続き明治20年に創立された北陸親議会(北前船主と関係陸商の組織)も、この地方の船主と近江商人とで組織されているほどでした。

彼らは御本家の沖船頭として奉公に励みつつ、一方では御本家の保護の下に富を蓄積して手船を求め、西回り航路で大阪に廻米し、上方の酒、塩、砂糖、雑貨、あるいは北陸の莚縄類を北海道にもたらし、帰路には鰊、昆布、〆粕(油を搾り取ったあとの鰊の搾粕・・肥料として貴重)の類を上方にもたらす、いわゆる「北前船」コースの完成を実現したのでした。

石川県には上記した瀬越、橋立のみならず、塩屋、安宅、金石、能登(羽咋、門前)に多くの船主を抱えていました。北前船のもたらした文化と遺産は現在まで多く残っています。各地に残っている北前船の資料館巡りをするのも貴重な経験になると思います。

資料・文献

@北前船          牧野隆信 林書房   昭和47.2.1発行

A北前船の時代      牧野隆信 (株)教育社歴史新書 1979.10.20発行

B北前船とそのふる里  加賀市地域振興事業団  昭和60.3.20発行