加賀藩の参勤交代と北国街道                          杉本 寛

参勤交代とは江戸時代に諸大名が一定の時期を限って交互に江戸へ伺候し、もしくは自らの領国へ帰った制度です。諸大名が江戸に伺候することを「参勤」といい、領国に就くのを「交代」といいました。即ち、領国に就くのは他の大名の参勤と交代で行われていたからです。参勤交代の目的はいろいろ言われていますが、地方割拠の傾向にあった時代に諸大名を制御して、権力の集中・掌握を図り、中央集権の実を挙げるための制度であったことは間違いないと思われます。加賀藩2代藩主前田利長が慶長7年(1602)人質として江戸に送った母まつを見舞うためと、家康の孫で秀忠の次女珠姫が利常に輿入れしたことのお礼のために江戸城に伺候したことが最初の参勤になったのでした。参勤交代が制度として確立したのは寛永12年(1635)3代将軍徳川家光が改正した武家諸法度で、その時に参勤の時期を定めました。加賀藩などの外様大名は主として四月交代・・・在府在国各一年でした。寛永12年(1635)からこの制度が事実上の崩壊を遂げる文久2年(1862)までの間227年になります。従いまして外様大名の場合参勤と交代の合計数は227になります。ところが加賀藩の参勤は93回で交代は97回と合計数190回になって37回少なく、参勤交代を欠いた年があったことになります。欠けた理由として@居城(金沢城)の焼失A領内の飢饉B藩主の不例C藩主の幼少・若年D藩主の代替わりE慶弔その他により用捨されています。

加賀藩の大名行列の人数は年によって差があったとはいえ、3000人前後であり全国諸大名の中で最大規模でした。参勤交代で江戸へ出るための道筋として加賀藩の場合次のルートがあります。@北国下街道(金沢−富山−上越−長野−信濃追分)を経由して中山道(軽井沢−高崎−大宮)のルートで全行程480キロを40キロ/日のペースですと12泊13日で歩くメインルートでした。しかし途中越中、越後、信濃には暴れ河川や親不知、子不知の難所のため大幅に道中が延長されたこともありました。A北国上街道(金沢−福井−武生−今庄−木之本−関ヶ原)を経由して中山道または大垣−名古屋から東海道のコースがあります。

このコースは中山道経由で約660キロ、東海道経由でも600キロありいずれも3日から4日多く掛かりました。その上親藩である越前福井藩や御三家筆頭の尾張藩の支配地を通ることの気苦労は一方ならぬものがあったようです。それでも北国下街道の気候・道路事情等により190回の参勤交代の中で9回近江路の北国上街道を通りました。9回中7回が江戸発駕の交代時に、残り2回は金沢発駕の参勤時でした。近江記を通る場合中山道鳥居本宿から米原長浜を経由して木之本・柳ケ瀬へと向かうコースと、関ヶ原から現在の国道365号線の玉、藤川、春照、伊部、郡上を経由して木之本へ向かうコース(北国脇往還)があります。

殊に、伊部と郡上は二宿一駅の小谷宿と称し旧浅井氏の城下町が宿場町に転じるという特色を持っています。伊部宿本陣(肥田家)は珠姫が加賀へ輿入れする時に整備したとの記録があります。以降加賀藩の行列全員の宿駅として規模は充分ではありませんでしたので、休憩所として活用されました。また金沢支藩の大聖寺藩や富山藩も北国下街道通行不能の時通ったようです。現在もその広い敷地と表門を構えた大邸宅から当時の面影が偲ばれます。肥田家の庭園は加賀藩との縁が深い小堀遠州の直弟子の作と伝承され、江戸前期の作庭といわれ湖国百選・庭になっています。庭から望む小谷山が借景になっています。天保2年(1831)頃の伊部肥田本陣屋敷絵図が残されています。屋敷地坪557坪、建坪270坪、部屋数21室、畳数154畳半、トイレ8カ所、風呂場3カ所と当時の威容が想像されます。現在の当主肥田嘉昭氏は私の中学高校時代の先輩にあたります。昨年10月31日肥田家を訪問しお話や資料を見せていただくと同時に、参勤交代当時の接待おやつである「甘酒」と「醒井餅」をご馳走になりました。尚肥田嘉昭氏は昨年3月私の故郷紹介でHPに記載しました湖北町野鳥センターの所長と同一の方です。

              肥田家                                 肥田家庭園

資料・文献

@参勤交代道中記−加賀藩資料を読む−     忠田敏男 元金沢市立図書館勤務  平凡社 1993.9.14発行

A湖北地方の資料紹介−昭和63年度展示事業概要−  滋賀県立長浜文化芸術会館  平成元年10月発行