石川滋賀県人会
小松と長浜の子供歌舞伎 杉本 寛
石川県の代表的な春祭りに小松市の「お旅まつり」があります。浜田町にある菟橋(うはし)神社と本折町の本折日吉(もとおりひよし)神社の春季祭礼を「お旅まつり」と呼びあっています。この「お旅」という言葉は、神輿が氏子のいる町内をはじめ、江戸時代小松城まで担いで城門で神事を行うなど神輿が渡り歩くように[旅]をするので、祭りの名称になったそうです。
小松子供歌舞伎より 小松子供歌舞伎より
小松菟橋神社
毎年5月13日〜16日までの「お旅まつり」の期間、毎日数回、町の各所で子供歌舞伎が上演されます。この曳山の子供歌舞伎は明和3年(1766)近江長浜から習ったようです。小松は長浜と生糸で結ばれていました。加賀絹の生産に欠かせない生糸を領内はもちろん、越中・越前の各地、そして近江長浜より買っていた事実が古文書に残っているそうです。少なくとも江戸時代中ごろには既に取引があったようです。
この長浜との交流と、加賀絹を販売する売子衆が京都に常駐し、領内のどこよりも上方文化に接する機会が多く、長浜の子供歌舞伎を小松に導入しようとする意欲が起こってきたようです。
長浜の曳山は、秀吉に男子が誕生したときに、秀吉からお祝いの金子をもらった町民がこれを基金として、12基の曳山(現在は13基)を作り、八幡神社の祭礼に引きまわしたのが始まりとされています。長浜の町は秀吉以降、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正と続きましたが、天和元年(1615)に廃城になり彦根藩の支配下になりました。その時以来、武士のいない町人の町になりました。更に秀吉依頼の特典である長浜町屋敷年貢の免除が引き続き保障されましたので、裕福な町として独自の発展を遂げました。江戸時代の中ごろから盛んとなって、長浜の名産となった生糸、浜ちりめん、浜ビロードの生産・集積地として繁栄しました。長浜の子供歌舞伎が曳山でいつ頃から行われるようになったか明らかではありませんが、最古の台本には寛保2年(1742)のものが現存していますから、遅くともこの頃と推定されます。最古の子供歌舞伎として各地の子供歌舞伎に影響を与えたようです。
現在、毎年長浜八幡宮の祭礼として4月13日〜16日まで曳山の子供歌舞伎を中心に華やかに行われています。舞台式の曳山の上で6歳から12歳の男の子が子供狂言を行います。長浜の曳山子供歌舞伎は、国の重要無形民俗文化財の指定を受け現在に至っています。この間の事情については長浜市元浜町にある曳山博物館で詳しく知ることができます。
長浜子供歌舞伎 長浜八幡神社
長浜曳山博物館
小松の子供歌舞伎も独自の発展を遂げていきます。曳山子供歌舞伎が「お旅まつり」の奉納神事として240年もの間、絶え間なく上演されてきました。昭和7年(1932)以降曳山を所有する8つの町内で、当番町として毎年2町で曳山を舞台に子供歌舞伎が上演されます。大歌舞伎の役者さながらの演技で観客を魅了します。歌舞伎を演じるのは、すべて小学校3年〜6年の女の子です。役者が足りない場合は、中学1年生や他の子供を頼む場合もありますが、それでもなり手が無ければ男の子を使うそうです。長浜では男の子が足りなくて女の子を使う例があるそうですが、小松は逆です。
小松が「歌舞伎のまち」と言われるわけは、お旅まつりにおける子供歌舞伎とともに、歌舞伎「勧進帳」の舞台「安宅の関」が小松に所在することにほかなりません。義経・弁慶の一行がこの新関を通りかかった折の物語は、七代目市川団十郎が天保11年(1840)に歌舞伎十八番の内として上演して以来、勧進帳は松羽目物の代表演目になっています。小松市では、小学生を中心とした「全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」を平成11年から開催されています。平成11年の「第1回全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」には、長浜市の子供歌舞伎も参加しています。だ2回以降も協力自治体として長浜市は協賛し、関係を深めているそうです。
小松市の子供歌舞伎の写真は、小松市観光物産課殿より借用いたしました。長浜市の子供歌舞伎は下記文献Aの中から転載させていただきました。
資料・文献
@長浜曳山まつり−こども歌舞伎 西川文雄解説 サンブライト出版 S54.3.20発行
A山車・屋台・曳山 長浜曳山祭りの系譜 市立長浜城歴史博物館 H7.1.21発行
B曳山のまち 長浜曳山祭保存会 H7.3発行
C加越能の曳山祭 宇野通 能登印刷出版部 1997.8.20発行
D 写真譜 加賀の祭り歳時記 今井充夫解説 轄楓社 S63.11.1発行
E 小松の曳山 加賀市山代温泉一区宮誠而発行 大西勉著 S58.4.1発行