北陸門徒の応援者近江の衆                            杉本 寛

近江国琵琶湖湖畔の本願寺門徒は土地から土地を自由闊達に渡り歩いた自由人であったようです。彼らは蓮如上人の越前吉崎入りに力を貸し、一向一揆には「外人部隊」として登場してきます。近江門徒の頭の名前は法住(ほうじゅう)といい堅田の人でした。彼は坊主でありながら染物業を営んでおり、配下の者の生業も油屋、麹屋、研屋、桶屋等が多かったそうです。

法住らは寛正6年(1465)本願寺の勢力拡大を恐れた、時の権力集団の手で京都を追われた蓮如を6年間匿い、琵琶湖経由で越前吉崎へ送り届けました。危険をあえておかした行動は蓮如に対する厚き信頼のみならず、法住一門が当時貨幣経済の発展で資力を蓄えたことがその自信につながったようです。

「自分は門徒にもたれて生きる」と言いきった蓮如の決意は、こうした新しい処世観をもった近江門徒との出会いで固まったとの見方が有力です。法住の自坊である堅田本福寺には「本福寺門徒記」や「本福寺跡書」の古文書が残され、貴重な歴史資料になっています。法住たちは精力的に活動し吉崎のみならず、「加賀、能登、越中、信濃、出羽、奥州、因幡、伯耆、出雲ヘ越シ商ヲセン」とあったりし、教線の拡大が商圏の伸張にもつながるとの「利」の部分もあったようです。

人々は旅から帰ると諸国の情勢を蓮如に伝えるという本願寺教団の布教・情報舞台でもあったと言えそうです。彼らが北陸の一揆に駆けつけるのは、永正3年(1506)の越前一揆の時でした。一揆は不発に終わったが、近江の外人部隊は「数百艘ノ兵船ヲモテ迎船」(『本福寺跡書』)するほどの大軍勢でした。船は彼らの足であり、堅田衆は湖上を京へ往来する船から税金を徴収する権利をもち、時には「海賊(湖賊)ヲカケル」(『本福寺由来紀』)こともありました。

            堅田本福寺                                 堅田本福寺














近江の衆の躍動的な気風は他国に定着した人物からもうかがえます。代表的人物として、加賀に移り住んだ洲崎慶覚という人がいます。この人は近江国間淵の里(現在近江八幡市馬渕町)の郷士であり、後に松根城(現津幡町)主となった兵庫の次男で洲崎兵庫為信と称しました。吉崎の蓮如上人に帰依し慶覚の法名を与えられ、吉崎御坊創建に扈従しました。

            吉崎御坊跡                              金沢市幸町慶覚寺














慶覚坊は蓮如上人よりご本尊と御染筆の名号を下賜されて、石川郡米泉村(現在金沢市米泉町)に草庵を結び、米泉、西泉、泉野の三泉の地を領地として専ら真宗の弘教に尽くし、泉入道慶覚坊と敬称されました。加賀の一向宗徒は文明7年(1475)守護富樫政親を打倒のために蜂起して破れましたが、長享元年(1487)政親が本願寺宗徒の壊滅を謀ったことを憤って、加越能三州の真宗法燈を守護するために、慶覚坊が首魁となって兵を挙げました。

翌二年(1488)六月、遂に政親は高尾城に滅び、以後一世紀にわたり加賀の国は一向宗徒の支配するところとなって、世にいう一向一揆の時代、“百姓のもちたる国”となりました。米泉の草庵は発展し約200年間米泉慶覚寺として弘教に尽くしましたが、寛文3年(1664)現地金沢市幸町(旧町名百姓町)に寺地を移しました。近江に縁があり一向一揆に所縁のある寺院が堅田の本福寺と金沢市の慶覚寺として現存し近隣の信仰の拠点として活動しておられます。

特に今回の調査に関して慶覚寺18世泉澂師に慶覚寺の由緒及び開基慶覚坊について貴重なお話をお伺いしました。厚くお礼申し上げます。

資料・文献

@真宗の風景 北陸一揆から石山合戦          北國新聞社編 同朋舎 1990 10.初版

A一向一揆と真宗信仰                    神田千里著 吉川弘文館 平成3.8.20 第1刷発行

B本願寺100年戦争                      重松明久著 法蔵館 昭和61.9.25 初版発行

C慶覚寺の由緒及び「米泉村」と「慶覚寺」について   泉澂師より入手資料