石川滋賀県人会
加賀藩の文化アドバイザー小堀遠州 杉本 寛
加賀藩三代藩主前田利常は、歴代藩主中傑出した業績を残した大名として、現在まで高く評価されています。当時120万石を領しつつも、外様大名であった加賀前田藩は、幕府の厳重な監視の下「決して武器を取ることはありません」という態度表明のため、軍事費を極力抑え、財力のほとんどを文化政策に注ぎました。
その結果、当時の日本の芸術活動の中心が京都・江戸といった太平洋側で発展した一方、加賀・金沢という日本海側における芸術活動が、江戸芸術の一翼を担うに至りました。信長や秀吉の文化アドバイザーとして千利休があったごとく、前田利常には大名茶人としての小堀遠州(1579〜1647)の存在がありました。
遠州と前田家の関わりは二代藩主利長が遠州の甥小堀重政を、また利常が遠州の娘婿小堀新十郎を召抱えたところから、前田家との関係が深まったようです。
さて、小堀遠州(小堀遠江守政一の通称)は全国的に今日まで知られている多才な武将で、近江の国南郷里村小堀(現長浜市小堀町)で1579年に生まれ幼名を新介、本名政一といいました。父小堀政次は浅井氏・羽柴秀吉・秀吉の弟秀長の家臣として活躍しました。遠州自身も父に従っていましたが、その後元和5年(1619)、近江国浅い郡に1万石の領地を得て小室藩の基礎を築きました。この間普請奉行として駿河城を築城した功により、遠江守に任ぜられました。
さらに、二条城・大阪城・江戸城西の丸等の作事奉行として活躍し、その関わりから禁裏(皇居)の造営、桂離宮庭園や大徳寺孤蓬庵等、当時の日本を代表する庭園建築家として幕府に重用されました。
また茶道を古田織部(利休七哲の一人)に学び、三大茶人と呼ばれ遠州流の創始者となり、三代将軍家光の茶道の師範を務めました。
このような著名な小堀遠州が加賀藩の文化アドバイザーとして実施した主要な功績やエピソードを以下に列記します。
@利常は遠州の一言で、大津の別邸で工事中の庭園を取り壊し、琵琶湖や叡山を借景とした雄大な庭園に造り変えました。遠州は「これこそ大名のお庭である」とほめたそうです。
A兼六園設立当初、現在の南東隅の山崎山の築山と石垣、および山崎山のふもとから卯辰山を望む風景は遠州の指図であり、前述のごとく借景であったようです。
B今は図面上でしか残っていませんが、金沢城本丸茶室と路地は遠州の設計で、その弟子賢庭の工事でした。
C 辰巳用水の謎として現在も盛んに論議されている事項に、兼六園から金沢城二の丸までの約650mにわたる逆サイフォンの技術です。当時ヨーロッパで用いられた技術を日本で最初に用いられたのが、1623年寛永仙洞御所庭園の噴水です。この噴水の設計をしたのが遠州であり、工事を行ったのが賢庭でした。
上記Bの工事は1631年に完了しましたが、その翌年城下町の大火をきっかけに利常は防火用水として、犀川の水を兼六園経由で金沢城内まで運ぶ辰巳用水を企画しました。従ってこの大工事の逆サイフォン部分の設計者は遠州、工事は賢庭であるという説をとる学者もおられます。
D寛永16年(1639)小松城に隠居した利常は、承応元年(1652)城内霞島に数奇屋を築きましたが、この時遠州の指導を仰いで造営し、できあがった書院や数奇屋を「遠州屋敷」と呼んでいました。
E茶道研鑽の軌跡として前田利常・遠州間または4代藩主前田光高・遠州間に取り交わされた書状や覚書が現在まで残されています。
F前田家主要茶器等へ遠州の影響の数々
・国宝 無準師範筆墨跡「山門疏」の入手を希望した利常が遠州の世話により黄金500両で入手
・天下屈指の名碗「曜変」 内箱に遠州筆(長浜市小堀町)
・重要文化財 茄子茶入 銘「富士」 遠州箱書
・「古瀬戸肩衝茶入」 銘「浅茅」 命名
以上述べました文化アドバイザーである遠州の影響は現在の金沢にも遠州流茶道として、また各所の庭園に残されています。
小堀遠州屋敷跡碑(長浜市小堀町) 小堀遠州顕彰碑(長浜市小堀町)
卯辰山の借景(兼六園山崎山麓より)
資料・文献
@加賀前田家 百万石の茶の湯 平成14.7.5 初版 発行所 樺W交社 監修 嶋崎 丞
A加賀の茶道 昭和58.4.20発行 発行所 竃k国出版社 著者 牧 孝治
B加賀百万石と江戸芸術 2002.1.20 初版 発行所 人文書院 著者 宮元 健次
C長浜市史7 地域文化財 平成15年3月31日発行 長浜市史編さん委員会