白山神社は比叡山の北陸支社だった          杉本 寛

霊峰白山をご神体とし、生きとし生けるものの「いのち」の祖神(オヤガミ)である白山比淘蜷_を奉斎した白山信仰は、加賀のみならず越前、美濃に住む人々にとって古くから根付いたものでした。それは祖霊の宿る聖域であり、日々の暮らしに不可欠な飲料水や農耕の灌漑用水を供給してくれる神々の座でもありました。

                                                           白山比盗_社

また、日本海を行き交う船人や漁を営む人々からは、海上における指標とされ、航海・漁労の守護神と崇められました。やがて白山信仰は九世紀(平安中期)ごろになると、素朴な自然崇拝から修験者の山岳修行や神仏習合思想に彩られた霊場へと変質をとげるようになりました。  加賀・越前・美濃の三方から、山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に整えられていきました。それらは天長9年(832)になって加賀馬場(現在白山比盗_社)、越前馬場(現在平泉寺白山神社)、美濃馬場(現在長滝寺白山神社)が開かれ、山麓における登山道筋の拠点と里宮=遥拝施設が整い始めました。

白山の神が歴史の中に登場するのは、仁寿3年(853)加賀国の白山比盗_が従三位に叙せられたと「日本文徳天皇実録」にあります。ついて天安3年(859)、全国267社に神格の叙位があり、白山比盗_は、このとき正三位に昇進しました。(日本三代実録)

このように加賀禅定道筋の社堂が越前・美濃に先んじて整備され、その基点に鎮座する白山比盗_社が、いちはやく律令国家の認知を得、同社は永治元年(1141)に至り、正一位を賜ったといわれています。一方、越前・美濃も信仰拠点(馬場)を持ち、それぞれ独自に勢力を広げてきました。平成8年(1996)の神社本庁登録明細によると白山神社は全国で2281社を数え、越前馬場の影響の大きい福井県・関西に約460社、美濃馬場の影響の大きい岐阜県・東海・関東甲信に940社を占めるに至ります。因みに加賀馬場の系統は石川県・富山県・新潟県を中心に東北・中四国・九州を併せてやく880社を占めます。

                                                              延暦寺

久安3年(1147)、加賀の白山本宮(白山比盗_社)=白山寺は「山門別院」(延暦寺末寺)となりました。以後加賀馬場は天台系寺社としての再編を図り、比叡山の地主神である近江坂本の「日吉七社」の例に習い、本宮・金剣宮・三宮・岩本宮・中宮・佐羅宮・別宮による「白山七社」を形成しました。やや遅れて越前(平泉寺)、美濃(長滝寺)も延暦寺の末寺化をとげることになりました。ここに、三方馬場の寺社勢力が天台宗教団の一翼に組み込まれ「白山天台」が成立しました。

安元2年(1176)、加賀国務を総括していた目代藤原師経が、涌泉寺(白山の別院)を焼き討ちした事件を発端に、白山中宮の衆徒が神輿を奉じ、延暦寺に愁訴する騒動に発展しました。神輿は一旦、近江日吉神社内客神宮に安置されましたが、引き続き延暦寺衆徒とともに入京し後白河法皇に強訴に及んだそうです。やがて事件は、衆徒の要求を容れた、法皇が師経らを処罰したことで決着を見ましたが、山門を後ろ盾とした白山衆徒の存在を都大路に示威する結果になりました。

その後、白山比盗_社は北陸鎮護の大社(加賀一ノ宮)として崇拝されていましたが、文明12年(1481)大火により四十有余の堂塔伽藍が悉く烏有と帰したそうです。その後、末社である三宮神社の境内を本宮鎮座の地と定めて今日に至ったそうであります。当時の規模の大きさに驚かされます。

明治維新の後は、「下白山」を本社、「白山天嶺」を奥宮とし、「国弊中社」として国家の殊遇を受けましたが、終戦後の今日は、全国二千三百を数える白山神社の総本社として、そのご神徳が仰がれていることは遍く知られたところであります。

資料・文献

@霊峰             白山 北国新聞社編集局編  2004年9月9日第1版発行

A図説             白山信仰 白山本宮神社史編集委員会編 発行白山比盗_社 宮司 山崎宗弘

B白山比盗_社境内入口 案内板