マキノ町の一部も加賀藩の飛地だった                      杉本 寛

滋賀県マキノ町名は、昭和30年、旧4ヶ村(海津村・剣熊村・西庄村・百瀬村)の合併による町制施行の際に、住民からの一般公募によって決定されたそうです。関西屈指のスキー場として知名度の高かった「マキノスキー場」に由来します。

当時、全国唯一のカタカナ町名は斬新かつユニークと賞賛されました。現在カタカナの町は、マキノ町の他に、北海道のニセコ町があるのみです。

                                                        国道161号線

このマキノ町の旧海津村地区の一部が、江戸時代加賀藩の飛地となりました。北国街道(湖西道路)に続く七里半街道(現国道161号線敦賀〜マキノ町海津地区間)の起点で、しかも湖北の要港であった海津が政治・経済・軍事上の要地を占めたことから、慶長5年(1600)から享保9年(1724)まで幕府の直轄領に、以降明治維新まで大和郡山藩(柳沢氏)領になっていました。

その海津地区は海津東町・海津中村町・海津中小路町の3町(いわゆる海津3町)で成り立っていましたが、3町全体で約870石余に過ぎなかったそうです。その内中村町は225石で最も小さかったが、その76%に当たる172石が寛文8年(1668)に幕府領から加賀藩に割譲されました。以降大和郡山藩に現マキノ町全域が所領に組み入れられたが、加賀藩領部分は明治4年の廃藩置県までその権益が保持されました。

加賀百万石にとってわずか0.02%弱の172石に過ぎない中村町の湖岸に面した場所に、加賀藩屋敷を建て、加賀米をはじめ多くの加賀の諸産物を大津や京都・大阪に搬送する場合の重要な中継拠点であり、経済的に見て必要かつ希望の土地であったことは否定できません。

大和郡山藩直轄地であった現マキノ町の当時の石高13400石に比較して172石に過ぎない加賀藩について脈々と現在まで語り伝えられていることがあります。

その1は

幕末加賀藩最後の藩主となった前田慶寧候(14代)が世子時代に、補佐として活躍した加賀藩士松平大弐が海津の正行院で自刃したことです。

幕末の尊攘派(長州藩)と公武合体派(幕府・薩摩藩)の争いの最中、苦境に落ちた長州藩の仲を京都で取り持った藩主斉泰(13代)の世子前田慶寧は、その後長州藩が蛤御門の戦い(禁門の変)で敗退、その後の長州征伐への展開により、必然的に非難の的になりました。藩論の情勢、公武合体派が主流となった幕府への配慮から、慶寧の補佐であった大弐は「慶寧および加賀藩安泰のためには、このたびの行動の責の一切を自分がかぶり自刃する以外方法がない。それがまた幕府の加賀藩を責めない結果になるだろう。」と決意し、金沢へ帰る途中、海津に留まり家臣の殉死を許さず切腹しました。時に43歳でした。

                                                             正行院

その後、前田家では大弐の霊を手厚く弔っていくとともに遺族に加増しました。明治31年(1898)朝廷は大弐の忠誠心を讃えて従4位を贈りました。その松平大弐の墓が自刃した正行院にあります。また、正行院本堂横には海津村有志による大弐の顕彰碑が大正6年(1917)に建てられました。

その2は

海津の町外れの墓地の中に一本大きくそびえる樹齢300年以上といわれる巨桜「清水(ショウズ・・・字の名)の桜」は、エドヒガンザクラと呼ばれ、高さ16メートル、幹の周囲6.4メートルあり、滋賀県自然記念物に指定されている県下最大級の桜だそうです。この桜は「七里半街道」沿いに根付いており、江戸時代には数多くの荷駄を運ぶ人々の目を楽しませたようです。また、水上勉の小説「櫻守」でその題材とされたことや、その昔加賀藩主前田候が上洛の折、その美しさに見とれ、何度も振り返り眺めたことから「見返りの桜」ともいわれており、春には多くの人々が訪れるそうです。

                                                            清水の桜

また、近くの海津大崎の湖岸には延長約4キロメートルにわたって600本の桜が咲き誇る見事な様は「日本桜名所100選」にも選ばれ、奥琵琶湖に春を告げる代表的な風物詩となっているようです。春には併せて訪れるのも大変楽しいことでしょう。

話し変わって、海津中村町の一部が加賀藩領になる(寛永8年・・1668)以前、豊臣秀吉の頃から加賀藩蔵屋敷が海津中村町にあったようです。この蔵屋敷は、敦賀にあがった加賀米を七里半越えで陸上輸送し、海津から湖上便で大津に送るための倉庫に似たもので、初代藩主利家の時から始められたようです。これらのことに関する利家の書状がいくつか残されています。





                                                湖岸沿いの石垣名残

また、この蔵屋敷が以後加賀藩邸となりますが、その位置や大きさについても関係古文書によると、面積は約190坪で湖岸に面しており、立派な石垣を有していたようです。この屋敷は地元代理人に下付され代々有力者を経て、明治年代では興化学校、さらに海津村役場、中学校、保育園と変わり、最近までは松崎医院となっていたようです。現在は無住の医院が残っています。一方海津東町の浜にも、かなり立派な石垣が数多く残り、加賀藩蔵屋敷跡らしい面影をとどめているため東町のほうが本命かもしれません。

平成の現在もマキノ町には加賀藩と海津地区の繋がりが話題として残っています。一度訪問しても面白いかと思います。

付記

今回の取材に関してマキノ町教育委員会事務局教育課課長青谷喜嗣氏、社会教育係係長田中一司氏の貴重なご支援を頂戴したことを付記し感謝いたします。

資料・文献

@マキノ町史     マキノ町史編さん委員会                  昭和62年1月30日発行

A海津物語      マキノ町役場産業振興課企画編集            平成10年3月発行

Bぎっとまって    マキノ町まちづくりネットワークセンター企画編集    平成13年3月発行