石川滋賀県人会
琵琶湖に散った四高漕艇部員 杉本 寛
明治28年に設立された四高漕艇部は、当初大野川を舞台に構内部対抗レースに力を注ぎ、熱戦を続けていた。大正9年から昭和2年までは、四高漕艇部の勃興期として対外戦を琵琶湖瀬田川コースで行い活躍した。特に、全国的な有力校といわれた対六高戦では、通算で四勝二敗という見事な戦績を上げ、国内でも最有力校の一つとなった。
昭和3年から昭和23年の解消に至る21年間は、主として京大主催のもとに全国高校優勝競漕大会が琵琶湖瀬田川コースで開催さた。初年度より昭和15年まで13回の大会中5回の優勝(準優勝2回)を飾るようになった。
昭和16年、第14回大会に備え、同年3月下旬から瀬田川合宿に入り、その総仕上げとして、恒例の琵琶湖遠漕の途についた。然るに、4月6日、湖西今津〜大津60キロ漕破の途中、高島町沖合において突然の気象異変により霙混じりの突風と怒濤に遭遇した。豊富な経験と鍛錬されたクルーの体力と闘魂を以てしても、ついに抗しえなかった大災厄となり、部員とOB計11名全員が湖底に消え去ったのでした。
そして当時、万難を排しての救援活動や2ヶ月以上にわたる遺体捜索が行われた。特に警察の捜査打ち切り後も、金沢の金石漁港組合員が漁網を持ち込み、高島町の住民も参加して、共同で懸命の捜査を続けた結果、転覆から66日目に最後の遺体が収容された。
音声付き歌碑
当時、四高生の悲劇を歌った「琵琶湖哀歌」(奥野椰子夫作詞、菊池博作曲、東海林太郎&小笠原美都子唄)が全国で流行した。特に作詞家奥野椰子夫の出身地大津市堅田(名所浮御堂の近く)に音声システム付きの歌碑が建立されている。
一方高島町では、遭難した四高生を偲んで、当時の同級生や関係者が湖畔の「萩の浜」に約千本の桜苗木を植え「四高桜」の並木となった。春の湖畔にピンクの花が咲き乱れる風景は、地元住民や観光客に親しまれてきた。しかし、加齢による枯死が進んでいることから、昨年現在残っている大半の120本を新設する公園に移植、枯死目前の数十本は伐採する県道拡幅工事案が発表された。これを知った住民の間で、現在地での桜並木の再生を望む機運がたまり、昨年2月、有志による「四高桜を守り育てる会」が発足した。
昨年3月と今年の3月の2回、四高桜の枝をヤマザクラに接ぎ木して鉢植えを作る催しが開かれ、これまでに住民や関西在住の四高OBら延べ150人が協力して計120鉢を作り、育てる会の会員が自宅で育てている。
こうした住民の熱意は、拡張工事を行う滋賀県をも動かし、県は拡張工事の完了後、会員が育てた四高桜の接ぎ木を現在とほぼ同じ場所に植える計画を示した。育てる会は来年も接ぎ木作りを行うことにしており、今西会長は「四高桜は、私たちの心に安らぎを与え、四高卒業生や遭難で救助活動を手伝ったお年寄りの琴線に触れる場所。四高桜を植えた当時の人々の心を大切にし、永く後世に伝えたい」と話したそうです。
遭難事故からすでに63年を経過した現在も、桜・歌碑・歌などを通じて滋賀県と深く結びついているといえます。
浮御堂からの琵琶湖 堅田付近の琵琶湖
付記
今回の原稿は、下記2点の資料の抜粋またはそのまま転記したものです。謹んで謝意を述べます。特に新聞記事はほとんど全文を引用させていただきました。
下記文献をはじめ、広済寺創立当時の貴重なお話を武佐祐昌殿から聞かせていただきました。この場にて、お礼申し上げます。
資料・文献
@四高八十年
昭和41年秋 四高創立八十周年にあたり記念出版
昭和41年7月 制作開始
昭和42年12月 印刷発行
編集 四高八十周年記念出版委員会
発行 四高同窓会
引用箇所 324ページ〜332ページ「漕艇部史」藤松盤石氏(大正14年 文化)
A北國新聞
平成16年3月17日付朝刊1面「湖畔の四高桜残った」