近江町成立の由来                                 杉本 寛

加賀百万石の城下町、金沢市のほぼ中心に近江町市場があります。市場の大部分である近江町は、その名前から判断して、近江商人または滋賀県と関係が深いのではないかとかねてから話題になっていました。

近江町と滋賀県の関係について、昨年3月に近江町市場商店街振興組合殿を訪問し、古い資料等を拝見しながら近江町市場の成り立ちについて教えていただきました。この時の訪問記は全滋連NO.23(May/2003)に掲載されています。
その際、町名由来の結論として2説紹介致しました。

@昔弓師近江という者初めて此地に居住す、依って近江町と呼べり。・・・「金城探秘録」文政8年 後藤彦三郎和睦著

A近江国の人来たりて尾山城下に居り、此処に家屋を建て、商業を営みたり。故に近江町と呼ぶ。・・・「稿本 金沢市史」第3編

とあり、確たる証を挙げることができませんでした。従って、その時の結論として、古くから近江商人は日本国内津々浦々行商するとともに、その地に深く静かに土着した先達の行動から、近江商人説を密かに支持したいとのことにしました。

その後、全滋連より近江町成立の由来について今一段の調査要請があり、再調査を実施しました。結果、古文書を含め下記の資料(資料・文献等参照)を入手できました。以下、関係する部分を纏めました。

文亀元年(1501年)、本願寺第8世蓮如上人の命を受けた祐乗坊(江州広済寺10代厳誓坊祐念の次男)が、本山の別院尾山御坊の看坊職として派遣されました。

尾山御坊は、現金沢城の本丸のところに御堂が建ち、看坊の寺院武佐広済寺も当初御堂に隣接して建立されたようです。1546年、金沢御坊が完成し、御堂を巡って寺内町が形成されましたが、その頃、南町・西町・安江町・金屋町・堤町等とともに近江町が成立しました。近江から武佐広済寺とともに行商人を中心としたグループが移住したのが近江町の当初の姿であったようです。

天正8年(1580年)、本願寺を敵とする織田信長の命を受けた佐久間盛政(柴田勝家の先陣)によって御坊は陥落し、以後、盛政の居城となり、西町・南町・金屋町・松原町・材木町・近江町・安江町・堤町のいわゆる「尾山八町」が栄えたようです。

武佐広済寺は御坊の陥落とともに、一時内川郷(現在の金沢市内川地区)の山中に難を避けましたが、寛永17年(1640年)に前田利常公から安江郷(現在の尾崎神社境内付近)に寺地を、次いで現在の地(金沢市扇町)を賜りました。近江町市場の先駆けとして、前田利家の入城(1583年)以前から朝市が始まりました。その後、金沢各地で市場が開設されたようですが、享保6年(1721年)それぞれの市場を近江町市場に統合しました。これが市場開設の年になりました。











                          賑わいを見せる現在の近江町市場

付記

武佐広済寺の現ご住職は18代目の武佐祐昌殿です。その坊守である武佐百合子殿は石川滋賀県人会の会員になっていただいております。近江八幡市武佐広済寺から輿入れされたことになり、1501年以来500年近く経過して再び、近江広済寺と加賀広済寺が結びついたことになります。

下記文献をはじめ、広済寺創立当時の貴重なお話を武佐祐昌殿から聞かせていただきました。この場にて、お礼申し上げます。

資料・文献

@天文御日記                  天文15年(1546年)本願寺第10世 証如光教手記

A金澤古蹟誌                  昭和9年1月15日発行 金沢文化協会 中島徳太郎代表

B石川県の歴史                 昭和45年4月10日発行 竃k国出版社 若林喜三郎監修

Cわが町の歴史(金沢)             1978年10月 兜カ一総合出版 田中喜男著

D太子山武佐広済寺由緒畧記        近江八幡市武佐 広済寺

E武佐山広済寺(尾山御坊看坊職の寺)   金沢市扇町 広済寺