石川滋賀県人会
近江の国友藤兵護(一貫斎)と加賀藩の河野久太郎の縁
―姉川洪水-余話―
-河野文庫より-
竹田 亮祐 小村 順子*
長浜の誇る観光名所、国友はかって鍛冶屋で栄えた集落で鉄砲造りの名所としてひろく知られています。その由来は、元々近江国には製鉄跡が各地に見いだされた事実によるとされ、古代から良質な鉄が豊富に採掘されたと伝えられています。また5世紀~7世紀の頃、朝鮮半島からの渡来人が優れた製鉄技術をもたらし、天文八年八月、大隅
の種子島に漂着した南蛮船が薩摩に譲渡した鉄砲をモデルとし鉄砲製作が可能となったと言われてます(国友鉄炮記)。
時代は下って徳川時代の繁栄が終焉を迎えると、日本は西欧諸国やロシヤなど、通商を求めて日本列島周辺を脅かす艦船を防禦しなければ、清国のように諸外国が租界地化しかねない危惧に脅かされ、諸藩は競って海防のための大砲を備え始めました。加賀藩では、かねて19世紀初頭(寛政4年、1792)に創設されたなる藩校(明倫堂と経武館)に並行し、13代藩主・斉泰が学問所・壮猶館(石川知事公舎邸に遺存)を創設し、医学ほか砲術に関する分野の翻訳を命じました。
河崎久太郎は、寛政四年(1792)生まれで17歳時に前田家に登用され数学を修め、十四年後に時鐘時計御用として時刻制度の改正に貢献しました。壮猶館のエリートであったのでしょう。家督を継いだのが文政十一年(1828)、その年、国友藤兵護に入門したと記録されています。現今でいう科学者の先輩にあたり、加賀藩の洋学を魁けした一人で、元々、前田家の直臣八家の一つ:長家に仕えた歩組頭で、弘化四年(7月25日,1847)には加賀の打木浜で西洋砲術の試射を行っています(加賀藩では、青山家の家来斉藤藤三九郎に次ぐ第二回目の試射)。
ところが天保六年以来、東北地方を主とする悪天候が続き、国友村でも天保七年頃から著しい天候不順が続いたらしく、姉川の氾濫による田畑の流失災害も重なってその一帯は深刻な飢饉状態に陥りました。米価の高騰によって国友村は米不足に直面し、鍛冶職人村で農民が少なかったこともあって、一貫斎の一家はじめ、村人たちも困窮に追い込まれ、暴動や餓死の危険にさらされました。そこで一貫斎は食糧確保のために望遠鏡を諸侯に売却し困窮を救済しようとしました。天保7年の書簡には平身低頭、諸侯にお買い求めを願う経緯が詳述されています。また、加賀の河野文庫にはこの頃、一貫斎が久太郎宛に送った洪水お見舞への礼状と思われる書状が残されていました(図)。
一方、鉄砲鍛冶の衰退とともに久太郎は、国友藤兵護の考案した望遠鏡によるハレー彗星の観測や太陽黒点の観測を行っています(天保6年)。
*小村順子:横浜市在住
付‐国友一寛斎の書状コピー
六月廿三日出之貴礼相達忝
物見仕候、未残暑強御座候得共
各様披成御揃愈御安泰に披成
御座見出度御儀二奉存候、御念
披入早速暑中御見舞披下置
忝仕合ニ奉存候、当方何れも支障二
罷候処当方七月十八日朝七ッ過ヨリ
大風雨ニ而同日暮六ッ時迄吹通シ
諸々物損シ多ク古家杯ㇵこわれ
候家も多ク、大木杯も数多たおれ
申し候、姉川筋処々堤切込私方ヨリハ
川向ニ、三ヶ所切込田地者損シ
候得共、村内ヘハ水入不申シ候ハ此上
悦申候、御当地者如何御座候哉承
度奉存候、色々奉申上度御儀
御座候得共不相替多用ニ而何レ
愚礼候、恐惶謹言、
七月廿二日 国友藤兵衛 花押
小村順子*-解読(横浜在住)