「井伊鉄三郎(直弼)が大通寺の住持になっていたら」     竹田 亮祐

「歴史にifはない」、(there is no if in history)という言葉がありますが、もし若き日の井伊鉄三郎(直弼)が長浜大通寺への退身を許され同寺の住持を継いでいたとしたら、桜田門外の雪が大老井伊直弼の鮮血で染まる凶事はなかったでしょう。そして開国前の日本において、はたしてだれが日米通商条約の調印を勅許を待たずに下すことができたでしょうか?と考えてしまいます。もし勅許を待っていたら、アロー号事件で勢いに乗った英仏の軍艦四十隻が大挙日本にやってきて清国並みの屈辱的な条約を強いたに違いないでしょう。攘夷か開国か?切羽詰った議論のなか、先に「アメリカとの通称条約に調印しておけば、英仏もこれに従うだろう」とのハリスの言を受け容れた方が日本の国益になろうと直弼は勇断したのでしょう。この直弼のゆるがぬ開国の思想は、おそらく腹違いの兄・直亮の洋楽精神を学ぶなかで芽生えていたと考えられます。また、ポーハタン号のハリスと交渉した下田奉行井上清直と目付け岩瀬忠震の即時調印論に耳を傾けたのかもしれません。  歴史はごく一瞬の出来ごとで大きなうねりをみせるものです。  万延元年(1860)3月3日、直弼が登城の朝、弥生の節句というのに全く珍しい大雪でした。大老伊井直弼の駕籠は供頭日下部三郎右衛門以下、60人のお付の侍を従えて「伊井の赤門」を出ました。駕籠が松平大隈守邸前にさしかかったところで訴状を上げて近づく二人の暴徒があらわれ、一人は短銃をもって駕籠をめがけて撃ち込みました。これを合図に待機していた尊攘派の水戸浪士(脱藩)が一斉に斬りかかり、不用意の装束しか着けていなかった彦根藩士を次々と斬り倒しました。世にいう「桜田門外の変」です。  ところで井伊直弼が「柳王舎:埋もれ木の館」で自分のためだけの修養の日々をすごしていた頃、長浜大通寺・世話役衆は直弼−養子迎え入れについて連判状をもって早い返答をと心待ちしていました。  わたしは、かねて長浜市大浜町の唯行寺#・花岡家の座敷に架かる「直弼が大通寺下の諸寺にあてた書状」の扁額の謎を解読すべく古文書通の方に読んでもらったところ、書状の文意は現代文にして大凡次のようでした。

 私どもが坊に入りますこと 思いのほか長引いて両役・お世話役のご一統  さぞやご心配いたしてくれていることと推察しております。  今しばらくにて決定すると存じますが この一件につきましては小野田・  犬塚 まことに心をこめお世話してくれ毎々文通にても如才ないことと考えられます。私どもの方からも度々お頼みしております。しかしながら近頃は当家の成り行きについて万事に飛び回っております。??   につきあれこれ延びているのかと感じております。如上の件   長引いたとについて両役もいろいろとご心配で お世話役交代申したいと 内々にご相談の由 もつともではありますが 今 左様になされては残念の至り測りしれません。過日 連判状をもってお申しこみの趣意 ことさらにお骨折りのことで 私ども大?の思いであります。したがつてご坊に入りました上は各々方 私どもの手足と存じ永く仏法が栄える場を開かねばならぬとのみ常々心にかけておりましたところ はからずも決定が延び 私どもも日々待ちかねております。  このような折 各家のさだめで役を退かれることになれば私どもの方も大へん力落しになります。 どうしても決定が延びることになれば 交代の件もまた延ばしていただくことになるのではないでしょうか しかしながら私どもの言葉を固く守っていただいても万が一ゆく先々間違いが生じる???場合には私どもが心のなかで済みにいたし これがために各一統の身分にもすべて?ことが成就するためにはただ忍耐次第でありますから 必ず指し止めするわけにはいかず いずれにせよ事情があることですので何分ご一統にお任せ致します。よくよくお考えおよびいただくべきことと存じます。如上の交代の件 くれぐれも残念なことですので 心から 内々に申し入れた次第です。
 かねがね申し置きしていることでありますが この趣旨も決して他言してはなりませぬ。
                                                  柳王舎(埋もれ木の館) 主人まいる
   七月 下九日
    隋願寺 報春寺 正賢寺 妙香寺 安勝寺 唯行寺 吟松寺
     満立寺 正幅寺 勝専寺


井伊直弼(石州流の茶人で片桐宗猿に師事し、宗観、無根水とも号し「茶湯一会集」、「閑夜茶話」、「入門記」などの著作を残しています。幼名は鉄之助、改めて鉄三郎)は、まだ運が開けなかった29歳の春、長浜大通寺の卍成和尚に会う機会がありました。もともと大通寺は、大谷派本願寺第13世・宣如上人の長男・宣澄が入寺し(1639)、井伊直孝の援助で拡大・整備されました。さらに第5代住職・横超院の正室には井伊家から嘉寿姫が入りその婿養子に井伊直在が6代住職(1786)として迎えられていました。が6代没後は絶えていたのです。そこで公は.しきりに殿のお気にいりの家老小野田小一郎や側役犬塚外記兄弟に是非やってもらえるよう嘆願していました。鉄三郎の真意は、いくら修養を積んでも雄心勃々として禁じ難い、いつまでも兄の厄介になって居るのも心外である、そうかといっても大名になれる望みもない寧ろ宗教界に身を投じて日頃信ずる仏陀の為めに力を尽して見たいと思っていたのでしょう。  ところが殿には子がなく、弟の朝元朝民を養子にしたものヽこの方にも子がなくゆくゆく宗観公を養子にしなければならないというお継ぎ事情がありました。この事情にまつわる書状はそのほかにもあるそうです。

他見不許隠密之書

「・・・・・・・・         此度長濱御坊より、私事所望之趣に付、萬一御上のも思召有之候はゞ、私を被遣被下置候様に願度,是全く栄耀を主と致候望には毛頭無之入院致候はゞ、精々其道を修行致、御先君之御供養をも申上、克又御上御長久もあ御祈念申上度、此儀は不肖之私にも相勤り可申、左候へば、身に応候事にて、日頃之御恩をも少しは報奉り候道理にへば、幾重にも願はしき事に候。且又御先君も御信心の思召有之、尚長濱の儀は、御叔父君之御遺跡と申、実母が宗旨にも候間、因縁も御座候につき、相成候儀に候獲ば、身之願之通被仰付被下お置候はゞ、此上之御高恩に御座候。・・・・)
   
                正月晦日                     鉄三郎
  犬塚外記 様
       (神奈川県立図書館・調査部地域資料科のご好意による)

  井伊直弼は、昭和の戦時には違勅の逆賊として謗られましたが、戦後は先見の明ある大老と讃えられるようになり、茶人としてもひろく知られています。また、佛恩報謝のあつい人物*でしたが、遠島相当と上申されていた吉田松陰、橋本左内をも死罪と断じた冷徹さは理解に苦しむところです。しかし直弼の心底には、 あふみの海 磯うつ波のいく度か 御世のこころを くたきぬるかな  春あさみ 野中の清水氷居て  そこのこころを くむ人ぞなき の真情があったのでしょう。