雨森芳洲の末裔−良順先生を偲ぶ                      竹田 亮祐

北近江(高月町の雨森町)の名所史跡、「雨森芳洲庵」を訪れた方はたくさんおられ、同町でご開業の雨森正高先生が全国的な「雨森一門会」を主催されており、また、同庵が1984年以来「小さな世界都市つくりモデル事業」の指定を受け「東アジア交流ハウス」の名で国際交流、人権などの講義や韓国の学校生徒との有効イベントを企画しておられることはご承知のことと思います。

雨森芳洲は、上垣外憲一の著書「雨森芳洲・元禄享保の国際人−」(中公新書)を通してつとに知られていましたが、とくに1990年5月に来日した韓国の盧泰愚大統領が宮中晩餐会の答礼で「誠義と信義の外交官」として雨森芳洲を讃え、その後、2002年3月に訪韓した小泉元首相が昼食会のスピーチの中で芳洲の「誠心の交わり」を引用したことから「外交はいかにあるべきか」の先覚者として一層関心がもたれるようになりました。

わたしは、金沢大学医学部十全同窓会名簿大正元年卒の筆頭に雨森良順の名があり、かねてから雨森家由縁の方に相違ないと思っていました。最近、高月町雨森の地で代々の医家でおられる雨森正高先生にお会いし同家に遺されている遺品を拝見させていただく好縁にめぐまれ、良順先生が正しく大正元年金沢医学専門学校卒業式において答辞を述べられ高安右人校長(高安病:’Takayasu's arteritis’の発見者として世界的に知られている)から銀時計を授与された英才であったことを知りました。これより先、金沢医学専門学校は藩校時代の校舎使用(大手町の石川県甲種医学校校舎、殿町の金澤病院)の不便さを解消するため土取場(現在の宝町キャンパス)に近代的医学教育設備(当時はドイツ医学)を統合する工事を進めていました(明治40年秋に第一期着工)。その竣工祝賀式(明治45年3月末)に際し、良順は生徒総代としての祝辞の中で新設成った建築の壮観を今時の学生諸君がとても持ち合わせない美辞麗句、流れるような文体を持って述べています。この一文を読むと良順が医学を志すにあたり理系の基礎的素養にもならず、いかに儒学的教養を習得していたかが分かります。

わたしは、このところ5月に医学生に講義する機会を与えられ、その折、PBI基金によって建設された新しい教育棟設備の立派さに隔世の感を覚えています。一指にも満たないメモリースティックを持参すれば、講義内容は学生一人ひとりの目前の17インチ液晶パネルに放映される設備の進歩。もし良順先生がこの場景をみたらどのように感じ、何とおっしゃるであろうか?83年目の大改築、技術の進歩に驚くばかりです。今年は、金沢医学校の発起人の一人、高峰精一の子息であったホルモンの先覚者(アドレナリンの発見者)高峰譲吉に因み、「内分泌学の曙」について講じ、合わせて明治の末年に在学した先人、良順の覚えた感動をわが胸にして学生諸君に奮起勉励を促した次第です。因みに雨森一門記念誌によると、雨森家系には医師が多く同郷で医業の傍ら俳諧を好んだ良医、雨森良圭は華岡青洲の門人であったことが刻まれている。
(種々貴重な資料をご教示いただいた雨森正高先生に深謝します。)

大正元年卒業写真