近頃思うこと:「国家の意思と、民の心情との相剋」、二つに逸話    竹田 亮祐

 このところ多くの日本人が日本の国、国家の行方、未来について一抹の不安感を抱き始めているかにみえます。経済成長の絶頂期から下り坂に入り、日本に代わる中国が経済、軍事力を高めてきたこと、さらにはロシアからの北方四島返還の目途がつかないまま、竹島、尖閣諸島の領有権をめぐり韓国や中国との新たな紛争の火がチラついてきたことによるかもしれません。古来、世界のどこでも隣国との付き合いは難しいことが指摘されています。また半島、大陸の民族はしばしば列島民族を支配するという歴史的事実があります。
 ところで国家とはなにか、これを定義することは難しいのですが国家は三要素をもっています。つまり「一定の境界(Staatsgebiet)をもち(Staat)、そこには恒久的に属し、一時の好悪でぬけたり復したりしない人民・国民(Staatsvolk)が住み、対外的・対内的に行使できる権力(Staatsgewalt)を保持していること、そしてその力は主権的(souverän)でなければならない」と表現されています。国家は単一民族で成り立っている場合、あるいはアメリカで代表されるように多民族から構成されている場合が多いのです。日本は「大和」、「倭」なる固有民族の国といわれてきましたが決してそうではありません*。
 「日本」という国家観(皇国史観)、それに基づいた社会の規範はおそらく明治維新以降、西洋諸国に伍する国造りなかで生まれてきたものと考えられます。その基本にはむろん昔から培われてきた「侍社会」や中国由来「儒の道」の規範・徳目を重んじています。
 国家という「公」と、臣(たみ)という「私」は、しばしば相剋します。その相剋をもたらす最たる仇は戦争です。
 仇なす敵という立場のなかで人間としての愛情、真情を吐露した二つの逸話を引用したいと思います。

   *日本人が人種的には混血民族であることは、DNA分析結果から推定されている。おそらく
   日本列島の先住民である縄文人と韓半島から渡来してきた弥生人が混血を繰り返し現在の
   日本人になったらしい。歴史的に古代日本列島には韓半島勢力、高句麗、百済、新羅などの
   分国があり、それらが力を拡張してきたと考えられます。
   そもそも「日本」という国名は663年白村江の戦い以前にはありませんでした。
   (金容雲は「日本=百済説)


1.サンクト・ペテルベルグにおける廣瀬武夫:友愛か恋愛か

   A secret story of Hirose's life during his stay in St.Petersburg
            Is it Amitie or Amour ?

 「明治三十年水無月二十日あまり六日の昼、露西亜留学と云える忝なき命を惶みぬ。・・・・」 これは廣瀬が遺した渡洋前の日録の一行です。
 かれは1897年9月26日から1902年1月3日(ニコラフスキー停車場を後にす)の間、日本海軍の留学武官としてロシアの都サンクト・ペテルブルグに滞在しました。この長い歳月にわたる広瀬武夫にまつわる露都物語については1961年島田謹二教授が「ロシヤにおける廣瀬武夫」(武骨天使伝)と題して第一版を公刊され、その十年後、決定版ともいうべき同じタイトルの大著を出版されました。この著作を下敷きにして書かれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』(-旅順口-)やNHKのドラマに登場した廣瀬武夫の、傑出した人物像は多くの人々を感動させました。かれはサンクト・ペテルブルグで二つの家族(コヴァレヴスキー:Kovalewski およびフオン・ペテルセン:Peterson)の温情を受け、それぞれの令嬢から熱い思いを寄せられていたことがかれのメモや交わされた手紙、その他の遺品から明らかにされています。とりわけ廣瀬自身が姉のために和訳したアリアズナ・コヴァレヴスキーからの手紙がその真相を語るに十分な資料となっています。ところがアリアズナは島田謹二が記載し、司馬遼太郎がイメージをふくらませた美しい女性はコヴァレヴスキー少将(伯爵)の令嬢ではなくコヴァレヴスキー大佐(機雷施設の専門家)の娘であったことがその後判明しています。いずれにしても廣瀬が過酷なシベリアの荒野を橇で走破し帰国して二年余、1904年2月8日、悲運にも日露は戦争に突入しました。海軍武官のエリートとして当然、廣瀬はかっての親しきロシヤの友を敵とし「百死あって一生なき」旅順口閉塞作戦の指揮をとるという命を受けたのです。
 そして福井丸で「探せど見えず」の杉野兵曹の名を叫び、止むなくボートに移らんとしたときロシヤ軍の銃弾に斃れたのです。しかも廣瀬の遺体はアリアズナの兄(海軍大尉)によって発見されたというのです。イギリスの報道は廣瀬の最後を「単身戦ったローマの勇士ホラティウス・コクレスの如し」と賞賛し、ロシヤ海軍は日本に先んじ軍楽隊の演奏をもって丁重な葬儀を行ったことが記録されています。
 さらに何人の心をも揺るがす事実は、かれを心から敬愛し帰国に際してエカテテリニンスカヤ街の居をおとずれ1500枚ものスタンプ・コレクションを贈ったペテルセン教授の令嬢、マリァが廣瀬の戦死4年後、真情あふれるドイツ語の弔文を廣瀬の兄姉に送っていたことです。このドイツ文は鬼神も哭かしむる名文であります。


弔文の一部:・・・・Ein Held ist er für sein geliebtes teures Vaterland gesorben und sein Andenken wird ewig in der Geschite fortleben,wie in denHerzen der Seinigen und seiner wielen Freude.・・・・

参照:島田 謹二 -「ロシヤにおける広瀬武夫」  朝日新聞社 1970
  (本文は、かって英文で書いた拙稿の和訳である)


2.50年前の手紙

   A 50 yrs-old Letter to a Japa-Navy Corp widow from Ms 難 in China with
   the Greatest Compassionaton beyond the Hostility

 1937年7月7日盧溝橋事件に端を発した志那事変(当時は事変と報道)は、やがて中国侵略戦争に拡大しました。翌年4-29日には、日本海軍航空隊(96式攻撃機18機、96式戦闘機30機)による中国基地・漢口の大爆撃が行われたのです。この日、漢口上空では迎え撃つ数十機の中国戦闘機と戦史にのこる一大空中戦が展開され、日本空軍は2機を失ったと報ぜられています(中国側の報道では21-45機)。散華した一人は岩手県和賀郡江釣子村出身の高橋憲一海軍航空兵曹で弾尽きて中国の陳懐民少尉の戦闘機に体当たりしたといわれています。中国軍は、犠牲者を収容すべく直ちに捜索隊を編成し漢口の山中に派遣しました。このときの捜索隊に陳少尉(21歳)の妹(17歳)難が特別に志願し参加を許されました。やがてかの女は山中に墜落した二人の遺体と対面することとなったのです。そして隊員は、高橋兵曹の飛行服のポケットに一葉の写真と一通の手紙を発見しました。その写真こそ兵曹の新妻M子さんのプロフィルであり、手紙は爆撃行前にとどいた新妻からの、夫への恋慕の情と帰還を待ちわびる四月十九日付けのものでした。
 これを見た難は、兄を喪った悲しみとともに、敵国とはいえ結婚したばかりの夫・憲一の壮烈な戦死という現実に遭遇したM子の嘆きに深い同情を覚えました。そして「この悲しみをともに分かち合いたい」と、「武漢日報」紙上に”高橋憲一夫人M子さんへ”の一文を発表したのです。しかし敵の国から何の返信もなかったことはいうまでもありません。半世紀が過ぎ、難は再び二人の五十回忌にあたる1987年四月二十九日、第二信「変わらぬ心情をもって亡き二人の魂を慰めたい」旨の文を「武漢日報」に掲載しました。時は過ぎ行くこと三年、上記のM子さんの手紙を保管していた委党史に関わる黎風氏が朝日新聞・清水記者に事の次第を知らせ、M子さんの消息調査を依頼しました。紆余曲折を経てM子さんが北上市に健在していることが判明し清水記者がご本人と対面、双方の写真を照合することのできたのは1990年秋のことでした。
 夫・憲一さんの武運を祈ったM子さんの手紙の文面には与謝野晶子の歌に盛られた反戦の心情*がこめられていました。当時の時局認識(討ちてし止まん)を省み、この手紙はいかにも国家の意思と民の心との相剋を物語っています。

* Never die! Death in battle Itself does not bring honor. Please keep yourself and back again
   to Kitakami so that we can enjoy a beautiful cherry blossom after fulfilling your duty.

鈴木静二:「五三年前の手紙」 日本医事新報 No.3947 1999
   (かって英文で書いた拙稿の和訳である)